いじめ
週刊文春の11月16日号(11月9日発売)の連載「本音を申せば」で、小林信彦さんが、今週は「いじめ」について書いておられる。で、「いじめ」について私もちょっと書いてみたい。
勤め先で、フィリピンとベトナムからのローカルスタッフを東京で預かって、研修生として研修している。雑談で、その彼らに、今日本ではどんなことが新聞のトピックになっているかという話題で、「いじめ」について話した。彼らに日本語を教えているのだが、ややこしいことを分かってもらうときには、英語で話す。
いじめのことは英語でbullyingと言うと、和英辞典には出ている。しかし、bullyingでは、正確な意味での日本語の「いじめ」を表していない。Bullyingというのは、単に虐待することだけ。日本語の「いじめ」を正確に表そうとすると、「ひとつのコミュニティ(クラスとか)の皆を統率して、個人を対象として、無視するとか心理的攻撃を加えて、対象者を孤立させること」ということになるだろうか。研修生には、「例えば、研修生の一人に、『こういうことを全員に伝えてくれ』とメッセージを与えたとする。それを、一人が首謀して、共謀してわざと一人だけに伝えないという意地悪をする。これがいじめだ」と言うと、分かってくれた。
「それなら、首謀者を諭して共謀を辞めさせれば、いじめは解決するのではないか」と研修生の一人が聞くので、「誰かがいじめをやめようと言えば、その人間が今度はいじめのターゲットとなる。結局、いじめをするというのは、そのコミュニティの体質であり、首謀者を止めても、解決にならないのだ。その首謀者が止めても、今度は他の人間が首謀者になる」と説明した。日本に対して尊敬と羨望の念を持ってやってきた外国からの研修生に、日本はこういう面を持っているのだという、日本のマイナス面を説明してしまう(せざるを得ない)自分の状況が、悲しい。
「いじめ」が今、社会問題として深刻な問題になっているが、「いじめ」は昔はなくて、最近起きたものではない。いじめは昔からあった。但し、昔は逃げ場所があったものが、今は逃げ場所というか、待避所、駆け込み寺がなくなっているのではないか。社会全体が、将来について不安を抱いている。それが、若い人に影響を与えているという面も大きいであろう。したがって、いじめは、子供だけの問題ではない。大人の社会が変わらなければ、子供の社会のいじめはなくならないであろう。一言で言うほど簡単なことではないが。
「いじめ」は、なくせばいいというものではなく、基本的に、存在するもの。孤立させられて、それでも「自分は孤独でもいい。孤独を恐れない」という覚悟も必要であろう。子供に必要というのではなく、人間が、人生を全うする上で、これは必要なことだと思う。但し、人間、天涯孤独では生きていけない。一人は自分が信頼を寄せる人間が必要であろう。結局、そういう人が一人居れば、あとは人生へのおまけではあるまいか。人生は長い。相方が先に逝けば、残ったほうは、逝った人の思い出を相手に生きるということもあり得るだろう。人間は、死んだらいなくなるわけではない。新でも、生きている人に影響を与え続ける、それが、その人の生き方というものであろう。
「子供」は「大人」ではない。子供は、「本当の孤独」には耐えられないように出来ている。したがって、子供に対しては、避難所を用意してやる、同時に、孤独への覚悟をつくるのを手伝ってあげる、その両面の手助けが必要ということだろうか。
『こと』 2006/11/11 10:26
